南龍寺

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正式には浄土宗 竹林山 文殊院 南龍寺 と称する
開山 元和元年(1615)寂蓮社尊誉雲哲上人 1616年 本堂建立 元和2年9月13日入仏供養

令和5年現在から408年前

元禄12年「起立書」後藤家文書によれば
成保4年(1647)の創建で寛文9年
字荒屋敷の現在地に移転とある(平凡社 郷土歴史大事典 千葉県の地名)

しかし、中興として六世 覚誉教山(元禄2年寂)の名が過去帳にある。
既存の素地に手を施して開創となす場合もある。

寺に残るものとして
応永2年11月(1395)「敬白 浄土宗 白旗流義 安心式定の亨」がある。
血判を押し名を連ねる地元旧家は代々世話人として現在にいたる。

【山門】
山門額は大本山 増上寺 大僧正廊源上人の筆によるもので山門の建築時期が推測される。

歴代上人墓地には寺子屋の生徒によって建立された
第19世注誉連明の筆子中がある(明治元年寂)
他に応安年中(1368~75)の銘がある板碑(土屋津本願寺跡)を保管する。

【板碑】(土谷津本願寺跡)
応安年中(1368~75)の銘がある
調査当時(昭和50年代はじめ頃)の県文化財調査員の一色氏の依頼により保管する。

【大師堂】(観音堂)
相馬八十八ヶ所 二十六番札所
新四国八十八ヶ所相馬霊場
安永年間(1772~1781)に開かれた。

文政7年建立 15世釈誉大義(1824)
安政3年建立(1856)(大地震のため大破)
昭和11年6月23世敬誉龍冠代 修理 その後昭和59年12月修理

霊場設立の最初は昭和7年にさかのぼるが数年を経た
安永4年になってようやく機運が熟し同5年から6年にかけて全般的に広まり以降、
残った数か所も追随して安永末はほぼ巡拝ルートが完成したと考えてよいようである。
(我孫子市史研究センター合同部会 大師道)

【徳本供養塔】(とくほん・とっこん)文政2年 1819
髭状の「南無阿弥陀仏」という文字の下に、徳本上人の花押(かおう)が刻まれています。
この花押は、「鬼殺す心は丸く田の中に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」という
徳本上人の言葉によります。

徳本上人(1757~1818)は浄土宗の念仏行者として有名です。
生まれは紀州(和歌山県)日高郡忘賀谷久忘村で、
4歳の時、隣家の子があっけなく病死したことから無常を感じ、後に出家して難行を修めました。

そして上人が「わがいほり 草鞋(わらじ)の上に笠の下 杖を柱に 墨染のそで」と詠んだように
全国各地を行脚修業、説教してまわり、多くの人たちに大きな感動と救いを与えました。
徳本上人のお念仏は木魚と鉦を激しくたたく独特のものでした。

文化元年(1804 3月5日)
徳本上人の説教を本所太平町霊山で聞いた
俳人小林一茶は「かかるさまは昔物語に見聞くのみ、目の前に逢い奉ることのうれしさよ」と
感激して記しています。
上人は幕末の揺れ動く社会不安の中で熱狂的な信者を集めました。

上人は文政元年(1818 10月6日)没ですから、
文政2年10月銘のこの碑は徳本上人の1周忌に、
上人の余徳を偲んで建てた供養塔であることがわかります。

【加納 阿弥陀堂】(土谷津地区)
寺の末庵
仏堂の由来概略
浄土宗 紀主禅師(三祖良忠上人)茨城より江戸の往復
其の地の道俗を教化せしの地にして(現在其の近辺の字地を本願と呼ぶ)
其の教化を受けたるもの今の地に建立せしものなり (坂碑あり)

【天真学校】
江戸時代の末になると、寺院や長屋で寺子屋が開かれました。
明治3年頃の布施村には、新屋敷に漢学の藤兵衛塾(寺子屋20人)、古谷に手習いの観音塾(40人)がありました。
明治6年9月になると、南龍寺を仮校舎として「天真学校」が開かれましたが、
明治33年には富勢尋常小学校となりました。

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お寺のご紹介です令和4年の秋に撮影されましたお十夜の映像もご覧いただけます

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