南龍寺

正式には浄土宗 竹林山 文殊院 南龍寺 と称する
開山 元和元年(1615)尊誉運哲 平成29年現在から401年前

元禄12年「起立書」後藤家文書によれば
成保4年(1647)の創建で寛文9年
字荒屋敷の現在地に移転とある(平凡社 郷土歴史大事典 千葉県の地名)

しかし、中興として六世 覚誉教山(元禄6年寂)の名が過去帳にある。
既存の素地に手を施して開創となす場合もある。

寺に残るものとして
応永2年11月(1395)「敬白 浄土宗 白旗流義 安心式定の亨」がある。
血判を押し名を連ねる地元旧家は代々世話人として現在にいたる。

【山門】
山門額は大本山 増上寺 大僧正廊源上人の筆によるもので山門の建築時期が推測される。

歴代上人墓地には寺子屋の生徒によって建立された
第19世注誉連明の筆子中がある(明治元年寂)
他に応安年中(1368~75)の銘がある板碑(土屋津本願寺跡)を保管する。

【板碑】(土谷津本願寺跡)
応安年中(1368~75)の銘がある
調査当時(昭和50年代はじめ頃)の県文化財調査員の一色氏の依頼により保管する。

【大師堂】(観音堂)
相馬八十八ヶ所 二十六番札所
新四国八十八ヶ所相馬霊場
安永年間(1772~1781)に開かれた。

文政7年建立 15世釈誉大義(1824)
安政3年建立(1856)(大地震のため大破)
昭和11年6月23世敬誉龍冠代 修理 その後昭和59年12月修理

 

霊場設立の最初は昭和7年にさかのぼるが数年を経た
安永4年になってようやく機運が熟し同5年から6年にかけて全般的に広まり以降、
残った数か所も追随して安永末はほぼ巡拝ルートが完成したと考えてよいようである。
(我孫子市史研究センター合同部会 大師道)

【徳本供養塔】(とくほん・とっこん)文政2年 1819
髭状の「南無阿弥陀仏」という文字の下に、徳本上人の花押(かおう)が刻まれています。
この花押は、「鬼殺す心は丸く田の中に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」という
徳本上人の言葉によります。

徳本上人(1757~1818)は浄土宗の念仏行者として有名です。
生まれは紀州(和歌山県)日高郡忘賀谷久忘村で、
4歳の時、隣家の子があっけなく病死したことから無常を感じ、後に出家して難行を修めました。

そして上人が「わがいほり 草鞋(わらじ)の上に笠の下 杖を柱に 墨染のそで」と詠んだように
全国各地を行脚修業、説教してまわり、多くの人たちに大きな感動と救いを与えました。
徳本上人のお念仏は木魚と鉦を激しくたたく独特のものでした。

文化元年(1804 3月5日)
徳本上人の説教を本所太平町霊山で聞いた
俳人小林一茶は「かかるさまは昔物語に見聞くのみ、目の前に逢い奉ることのうれしさよ」と
感激して記しています。
上人は幕末の揺れ動く社会不安の中で熱狂的な信者を集めました。

上人は文政元年(1818 10月6日)没ですから、
文政2年10月銘のこの碑は徳本上人の1周忌に、
上人の余徳を偲んで建てた供養塔であることがわかります。

【加納 阿弥陀堂】(土谷津地区)
寺の末庵
仏堂の由来概略
浄土宗 紀主禅師(三祖良忠上人)茨城より江戸の往復
其の地の道俗を教化せしの地にして(現在其の近辺の字地を本願と呼ぶ)
其の教化を受けたるもの今の地に建立せしものなり (坂碑あり)

【天真学校】
江戸時代の末になると、寺院や長屋で寺子屋が開かれました。
明治3年頃の布施村には、新屋敷に漢学の藤兵衛塾(寺子屋20人)、古谷に手習いの観音塾(40人)がありました。
明治6年9月になると、南龍寺を仮校舎として「天真学校」が開かれましたが、
明治33年には富勢尋常小学校となりました。